光岡史跡探訪 vol.1
2月5日(木)
光岡小学校5年生79名が、総合学習の時間に郷土の歴史を知ろうと、光岡地区の史跡探訪を行いました。
参考資料には、男の居場所の皆さんが作成した「光岡地区ガイドマップ」を使用。
各地での案内も男の居場所の皆さんが行った。
最初に紹介するのは、入江大明神岩を訪問したグループ。ここは少し遠いためタクシーに乗っての移動でした。
入江大明神岩は酒徳利を逆さにしたような水上6mほどの巨岩がそびえ立っている。
詩人・頼山陽も絶賛したと言われる自然が作り出し景観美である。
こちらの班は、空性寺を訪ねる。
空性寺は、1637年(寛永14年)、島原の乱の後、一村一寺の命により、天領から天領への移寺として、1642年(寛永19年)長崎から日田に移され開山されたもので、本尊・阿弥陀如来とともに浄土真宗・東本願寺より寺号を許可されたと言い伝えられている。
こちらは、片山磨崖種子。北友田2丁目片山地区の岩壁を3.5m×2mに堀窪め、「バク」と読む釈迦如来を表す梵字を掘り込んでいる。
この字は彦山に多く見られるもので、その修験者が山岳崇拝の修行の折に刻したものだとも推測されている。
ただ作られたのが岳林寺創建の2年後であることから、寺域の西端を示す印との説もある。
こちらは、星隈山を訪れた班。
星隈山は、三隈川と花月川の合流地点にある残丘。
周囲には、横穴墓群があり、現在44基が確認されている。6世紀後半の築造とされ、この一帯(三郎丸)の河川交通などを掌握していた豪族墳墓(三郎丸古墳)の被葬者を支えた民衆の墓ではないかと考えられている。
前半の最後に紹介するのは、南友田町の酒楽神社。
938年(天慶元年)の日田大洪水のとき、大原八幡宮楼門から流された善神王随身像が、その3年後に発見された場所として祭られた大原神社の末社とされている。
木像は風化損傷が著しいが、平安時代中期のもので、榧(カヤ)材で造られ漆箔か彩色があったと見られている。